生い立ち
偉大なピアニストであり、作曲家のフレデリック・F・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)は、1810年にワルシャワ郊外のジェラゾヴァ・ヴォラでフランス人の父とポーランド人の母の間に生まれた。
ショパンは生後7ヶ月の時にワルシャワへと移住し、20歳までを過ごす。7歳で初めての作曲をするなど「ワルシャワの天才児」と呼ばれたショパンだが、体が弱く、療養のためポーランドの田舎で過ごすことが多かった。彼の作る音楽は、当時療養先で出会ったポーランドの民族音楽「マズルカ(mazurek)」や「ポロネーズ(polonaise)」に大きな影響を受けたと言われている。
ショパンは20歳で活躍の場を広げるためウィーンへと旅立つが、満足な活躍ができず父の母国であるフランスへ移住し、そこで世界的な音楽家としての地位を確立する。当時のポーランドはロシア帝国の統治下に置かれていた時代だ。ショパンがワルシャワを離れた1830年11月2日のわずか25日後の同月27日に、ワルシャワ市民による蜂起が勃発した。ショパンはポーランドへの望郷の思いを常に抱えながらも二度と母国に戻ることは出来なかったが、それは蜂起メンバーと関係があり、蜂起失敗後、ロシアの追及を恐れて戻ることができなかったのではないかと言われている。
39歳の若さで亡くなったショパンは、遺言として「体は戻れなくとも、せめて心臓だけでも持ち帰ってほしい」と姉のルドヴィカに伝えている。その言葉通り、死後ショパンの心臓はワルシャワに運ばれ、聖十字架境界の柱の中に安置された。
ショパンの作品とその魅力
フレデリック・ショパンは、ピアニストとして非常に特異な存在でした。彼は生涯でわずか30回ほどしか公の場で演奏を行っていないにもかかわらず、最高の名声を築き上げたのです。繊細で独創的な鍵盤へのアプローチにより、当時のピアノの可能性を余すところなく引き出し、鮮やかで新しい技巧や響きを次々と生み出しました。ペダルの活用法や指使いの革新、鍵盤全体の扱い方はピアノ史における画期的な出来事であり、彼の作品は「ピアノのために書かれた音楽とは何か」を決定づける水準を打ち立てました。
多彩なピアノ作品群
ショパンの作品の大部分はピアノ独奏曲です。代表的なジャンルには、マズルカ(約61曲)、ポロネーズ(16曲)、前奏曲(26曲)、エチュード(27曲)、ノクターン(21曲)、ワルツ(20曲)、ソナタ(3曲)、バラード(4曲)、スケルツォ(4曲)、即興曲(4曲)などがあり、そのほかにも《舟歌》(作品60)、《幻想曲》(作品49)、《子守歌》(作品57)といった傑作が並びます。また、ピアノ曲にとどまらず、ポーランド語による歌曲も17曲残しています。
作曲家としての評価
19世紀後半には、一時的にアカデミックな基準で低く評価されることもありましたが、その独自性と表現力は後に再評価され、現在では不滅の音楽家として位置づけられています。ショパンは作品ごとに必要に応じて和声や形式を革新し、心からの感情を伝えるメロディの才能に恵まれていました。彼の音楽は「ロマン派」としての情熱を持ちながらも、古典的な純度と節度を備え、過剰な誇示を避けた気品を漂わせています。
ショパンにとって最大のインスピレーション源は、自身の内面と祖国ポーランドの歴史でした。祖国の栄光と苦難は常に彼の心にあり、若き日に親しんだリズムや旋律を芸術的な形式へと昇華しました。たとえば、マズルカには素朴で親密な詩情を、ポロネーズには儀式的で荘厳な性格を与え、特に《幻想ポロネーズ》(1846年)では交響詩に匹敵するスケールをピアノで実現しています。ワルツでは規模を拡大するのではなく、洗練と優雅さを極め、新しい魅力を開花させました。
歌うピアノ
同時代のイタリア・オペラ歌手から影響を受けたショパンは、ピアノで「歌う」方法を学び取りました。ノクターンにはその歌心あふれる旋律と優美な装飾が凝縮されています。一方、バラードやスケルツォでは激しい情熱と劇的なうねりを示し、単なるサロン音楽家にとどまらない力強さを証明しています。
不滅の存在として
ショパンの作品は量的には大きくありません。しかしその限られた枠組みの中で、ほとんどあらゆる感情や音楽表現を網羅しています。パリ社交界に時間を費やしたことを批判する声もありましたが、彼の真価を理解した同時代人は、その独創性と精緻な技術に驚嘆しました。今日では、心の奥深くに触れる洞察力と、ピアノから新しい魔法のような響きを引き出す感性によって、ショパンは永遠に生き続ける音楽家とみなされています。
年表
1810年 | ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。生後7ヶ月でワルシャワに転居。現在のサスキ公園内の宮殿別棟に住む。 |
1817年 | 7歳でポロネーズを作曲。楽譜が出版される。現在のワルシャワ大学内カジミシェル宮殿に転居。 |
1818年 | ワルシャワで初めての演奏会を行い好評を博す。(8歳) |
1823年 | 普通の子供として育てたいという親の願いによりワルシャワ高等中学校に入学。ワルシャワ音楽院長から作曲の個人レッスンを受ける。 |
1824年 | シャファルニャで夏休みを過ごし、ポーランドの民族音楽に関心を抱く。 |
1826年 | 16歳の頃、ワルシャワ音楽院に入学。体が弱かったため、夏にはドゥシニキ・ズドルィで療養。 |
1827年 | 妹の死をきっかけに現在「ショパン家のサロン」として公開しているクラシンスキ宮殿(現チャプスキ宮殿)に転居。 |
1829年 | ワルシャワ音楽院を卒業。 |
1830年 | 音楽家として世界で活躍するため、20歳でオーストリアのウィーンに旅立つ。その直後ワルシャワで11月蜂起が起こる。 |
1831年 | ウィーンで思うような活躍ができず、フランスのパリへ。 |
1832年 | パリで最初の講演会を開く。有能な音楽家として認められる。 |
1835年 | チェコのカルロヴィ・ヴァリでひと夏を両親と過ごす。その後、ドイツのドスデンでかつて交流があったポーランドの貴族ヴォジンスキ一家と会う。娘のマリアに恋をして「ワルツ」を彼女のために書く。パリへ戻る途中で吐血。 |
1836年 | マリアに求婚するが、翌年には婚約が破棄される。この年、マリアーンスケー・ラーズニェで療養する。 |
1838年 | フランスの女流作家ジョルジュ・サンドとの関係が始まる。サンドの元で多くの作品を生み出し、安定した音楽生活を送る |
1847年 | サンドと決別。「子犬のワルツ」などを作曲。 |
1848年 | 二月革命で混乱したパリを抜けだして、ロンドンへ渡る。吐血を繰り返す体を押して、生活のためレッスンや演奏会を行ったが、病状が悪化しパリへ戻る。 |
1949年 | 10月17日パリにて永眠。(39歳) |